KUMAUHEI WORKS CAUTION!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! vol.2テキスト版
part2 『デザインってなんだろう』
ブックアート作品『注意!-京都貼紙地図-』を紹介するUstreamの
放送内容をテキスト化したものです。
vol.2 part2では、
美術に関わっていく中で
いろいろな価値観があるのに『良い作品』なんてあるのかなという疑問
に対して、たくさんの人と情報を共有する為の方法としてのデザインに
興味を持っていった話から、
その反対に“個人の感性”というものがデザインにとって
どういう意味があるのかという事について
世の中が工業化していった時代の人々の対立を取り上げながら考えていきました。
美術に関わっていく中で
いろいろな価値観があるのに『良い作品』なんてあるのかなという疑問
に対して、たくさんの人と情報を共有する為の方法としてのデザインに
興味を持っていった話から、
その反対に“個人の感性”というものがデザインにとって
どういう意味があるのかという事について
世の中が工業化していった時代の人々の対立を取り上げながら考えていきました。
出演
KUMAUHEIWORKS(以下:隈) 画面左下
なんしーさん(以下:な)声のみ
ともひろくん(以下:と)声のみ
隈:えーと… うーん…
ちょっと待ってくださいね。
と:あれあれ?
隈:これどうするんだっけ…
あ、できた。
前回のおさらい的なことを
やるべきかどうか迷ってるんですけど。
前回のおさらいは
KUMAUHEIWORKSのブログのトップページから
文字おこしした全文が読めるので
そちらを見ていただきたいです。
な:見ました。ようやったなと。
隈:あれね…テキストおこしてる間
すごいつらかったっていう。
な:3倍が目安といわれていますね。
隈:かかる時間がってこと?
な:基準としてはね。
隈:はいはいはい。まあでも
あれは、ほとんど編集してないんで
ほとんど(文字おこしの正味の)
時間(しか)かかってないですね。
な:いかに私が
適当な返ししかしてないかが…
隈:wでも別にプレゼン中は、うんうん、でもね。
ちなみに
今の雑談も全部文字おこしするっていう…
でもなんか、
『聖☆おにいさん』読んでたら
なんかできるような気がしてきた。
な:どういうこと?
と:w
隈:ブッダっていうキャラクターが
でてくるんですけど
な:知ってます。
隈:なんかつらいことがあると
これは苦行だと思おうって
スイッチを入れて
なんとか頑張るっていうのがあってね。
な:設定だと思えばどんなことも
乗り切れるということですか?
隈:うん。
と:悟りですね。
な:それ…でもいいかもしれんな。
そうしようかな。
隈:はい。そうですね。
なので、
前回分はテキストおこしを見ていただくとして。
(この作品は)
『注意!-京都貼紙地図-』という卒業制作で、
(このUstは)
2年くらい前に作った作品のプレゼンを
ずっとしてるんですけど
作品を作るとき
なんで本っていう形をとったのか
っていう説明をしてたんですね。
前回は。
その最後に、だんだん
この先は良くないんじゃないかって
思うようになってきた。
それはなんでなんかなっていう話を
していって。
あとは、美術と出会って
いろんな人が自分の好き嫌いがあるのに
それを絶対化してしまうこととか。
なんかそういうのにすごく違和感を感じて、
みんな共有できるものとか
みんなに伝わることとかってあるのかなって
考えるようになって
デザインというものに興味を持つように
なったんですけどーーていう話を今から
やるんですけどね。
ここにきて
デザインっていう言葉が出てきたんですが
美術っていうのと最初に出会って
そこから、みんなそれぞれ価値観はばらばらだし
現代美術なんて一部の好事家が
面白がってるだけだし
っていうふうに考えてしまっていたと。
10代後半くらいのときに。
それで、多くの人に伝えるためには
どうすればいいのだろうかっていうので
デザインっていうところに行ったんですが。
デザインっていうのに興味を持ち始めたときは
例えば、
アフォーダンスとかエルゴノミクスとかが
盛んにされてて
…エルゴノミクスはそこまででもないか
アフォーダンスはすっごく流行ってて
J・J・ギブソンっていう人がいいだしたんですが…
と:さっき調べたので大丈夫です。
隈:さっきね…
ギ・・ブソンだっけぐらいの感じだったんですが
一応調べてみたら合ってて良かったねって…。
あのアフォーダンスを
デザインの中に取り込もうとした人の中に
深澤直人さんっていう人がいらっしゃいます。
こないだちょうど
日本民藝館の館長に就任されましたがね。
深澤さんが言うには
(アフォーダンスの例として)
…雨降ってるとき傘をさしますよね。
そこから、どこかの建物の中に入るときに
傘を置かなきゃいけない。
でも傘立てがないという時に
どうするのかというと
家の前にタイルとかが引いてあると
タイルの目地に傘の先端を引っ掛けて
壁に傘をもたせ掛けてるみたいなことが
ありますよね。
そのものは別に傘立てとしてはつくられていないけど
人間がなんとなく
部屋に持ち込んじゃいけない
長い棒を縦向けに置かなきゃいけない
っていう状況になった時に
どっかにとっかかりとか引っ掛かりを見つけて
置いてしまう。
そういうようなことがアフォーダンスです。
それをデザインに活かすと
そういう感覚は、
わりと人に共通のものだから
良いものが生まれるんだ
っていう考え方であったりとか
エルゴノミクスっていうのは…
すっごい手の形にあったグリップのナイフとか
すごい座りやすい椅子とか…そんなかんじ。
人間の形に合わせてつくったら
その人がどんな価値観の人であろうと
体の形に合わせて物をつくったら
使いやすいものをつくれるとかね。
そういうような考えが
大事にされていたりとかね。
よく大学で言われたのは
デザインとアートは違うんだという話で
アーティストは個性が大事だけど
デザイナーはそんなんじゃない
とかっていうはなしとか
デザインは物事の解決策である
とかっていうはなしとか
デザインは、独りよがりじゃいけないとか。
な:それは誰が言ってたんですか?
デザイナーの先生ですか?
隈:このへんはそうですね。
学生が自分の提案をうまく
プレゼンできなかったりとか
独りよがりな理由で作ったなどと
言おうものなら
すごい剣幕でこういうことを言って
粛清していくみたいな教育が
行われていたんですね。
と:粛清って…
隈:というなかで言われてきた言葉…
すっごい批判してるけど大丈夫かなこれ…
(こんなつもりじゃなかったのに…)
な:前、先生とか見てなかったですか?
隈:僕は、前からこういう立場でしたし
扱いづらいなあと思われていただろうから
いいんですけどね。
な:まあ、もう卒業してるしね。
隈:うん…
そういうことを言われるし
というか…私自身もある意味では
間違ってないと思うし。
美術っていう領域で
何を作っていいのかわからないっていうのとか
人はいろんな価値観があるのに
良い作品ってなんなんだろうって思ったりしてて
なんだかよくわからなくなってた時期に
こういう考え方は、当時の僕としては
良いものだと思っていたんです。
しかも、今でも“間違っている”とは
思っていないんですね。
だけど、
これだけではないというふうに
思っているんですね。
そこから
そもそもデザインって
なんだったんだろうっていうことが
気になったんですね。
っていう話を今からやりたいと思います。
な:はい。
隈:まず最初に出てくるのが
ウィリアム・モリスという人ですね。
この人はアーツアンドクラフツ運動
というのをしましたと。
ウィリアム・モリスっていうのは
このおじさんですね。
な:このおじさんw
顔を見るのってあんまりないですね。
隈:なんしーさん画像見えてるんですか?
と:こんなに拡大されることはないですわな。
隈:w
な:自分でも同時に調べて見てるんで大丈夫です。
髭のおじさんですね。
隈:そう。髭のおじさんですね。
と:髭だけのアップ…
な:髭だけの…?
隈:今日は、髭の人が多いから
髭生やして出てきたんですけどね。
な:それは、あえて髭合わせなんや。
隈:そうです。髭合わせ。
と:髭合わせって…
隈:このウィリアム・モリスっていう人は
何をやった人なのかというと
…っていうかどんな物作ってたのかというと
こういう植物の柄をあしらった壁紙とか
これこれ、ケルムスコットプレスっていう
印刷所というか出版社を作って
世界で一番美しい本を作ろうとしていた。
「チョーサー著作集」っていうものとかが
有名ですけどね。
この人がやった
アーツアンドクラフツ運動っていうのが
世界で初めてのデザイン運動
ということになってるんですけど
(その中身は)
ざっくりいうと
機械で作られたものは醜いから
手作りに戻そうぜっていうことを
言ってたんです。
のちのデザイン運動であったりとか
バウハウスとかで教育されてたこととかは
わりと機械生産時代に
どういう美しいものを作っていくか
っていう話が
メインになっていくんですけどね。
デザインっていうのは、
冒頭にも言った通り
アーティストと
デザイナーは違いますよっていうのが
あるように
どっちかっていうと
いっぱい作って
たくさんの人に
受け入れられるためには
どうすればいいのか
っていう話をするのが
デザイン…なのかと思いきや
最初のデザイン運動とされているものは
機械で作られたものは醜いから
手作りにしようっていう運動だったと
じゃあアーツアンドクラフツ運動って
なんでデザイン運動と呼べるんだろうと
いうことなんですが
モリスは、…イギリスのはなしですよね。
イギリスでは
何が起こったのかというと
…今ちょうど
ロンドンオリンピックとかやってますけどね。
産業革命っていうのが起きたと
農業国だったのが産業革命が起こって
工業生産がされるようになったと
そこで、作られるものが
醜いっていう話が出てきたんですが
モリスとかは、
そういうことをすごい思っちゃったんですよね。
ロンドン万博って
水晶宮の中で
いろんな国の最新の技術とかで作ったもの
を展示してたんですけど
(モリスは)そういうのを見てて
すっごい醜いものだと思ったんですね。
そこからモリスは
ジョン・ラスキンっていう思想家の
影響を受けたりして
ものの形によって生活が形作られる
っていう考え方をしていったんです。
そのときは、そういう考え方自体がなかったんです。
だから、工業製品といわず
もののかたちによって
人々の生活がよくなったりする
っていう考え方自体が
今までなかった考え方なんですね。
近代以前、産業革命以前って
言ったほうがいいかもしれないですがね。
ものの形ってどういうふうに
決められてたことなんだろう
ということなんですが
ここでいうもののかたちっていうのは
生活用品とか建築とかっていうものですね。
そういうものは、
結局その地域の風土とか、
そこから出てくる文化、風習
そして
そこに根付いている
宗教とかっていうものなんですよね。
なんかそういうものに
かたちの根拠があったと。
生活用品とか建築とかって
ある種慣習的に作られてきたという部分もある。
物のかたちっていうのは
様式みたいにして、
決められているものだというか
“決まってきていった”ものなんですね。
それを誰が作るのかというと
職人とか生活者自身がつくっていた
で、だれが使うのかというと
その地域の人がつかっていたと
そういう構造がありました。
今、図で出てますが
かたち つくる つかう
という関係が
かたち→様式
つくる→職人
つかう→地域の人
っていう
とじた関係性だったものが
産業革命が起きて
工場で物をつくるようになると
かたち→様式
ここは変わらない
つくる→工場
ここがこのように変わります。
たくさん作るようになったので
つかう→いろいろな地域の人
っていう関係になります。
つまり、この中で
変わらなかったのが
かたち→様式という関係ですよね。
作り方も使う人も変わったのに
かたちを作る根拠というのが
変わらなかったんです。
もともとは、特定の風土でしか
有効でなかったものが
大量に作られることによって
本来使うべきではない人にも使われる
というようなことが起こったんです。
様式どおりにつくって
なんでこんな風に
なっちゃったんやろうっていう例を
紹介します。
こういうものがありまして…
これなんだと思う?
と:なにかの機械…
隈:高圧蒸気機関というふうに
なってますけど
と:ああー
隈:エルンスト・アルバンっていう人がつくったもの
なんですけど…
Dr.E.ALBANって名前まで書いてありますけれど
神殿みたいじゃないですか
と:うん
隈:蒸気機関に神殿みたいな形は必要ないのに
こんな形をつくっちゃってるんです。
このころまでって
物の形を決める根拠が様式しかなかったので
こういうものを作る発想しかなかったっていうか。
と:ああ
隈:いろんな工業製品とか建築物がこういうふうな発想でつくられていったんですよ。
もう一つ面白いのがこれで…
これは、鉄で作った橋なんですが
かたちが変だと思いませんか?
私たちが普段見ている鉄橋とは違う
かたちをしていますよね。
と:円い…
隈:そうです。
アーチ橋の形をしている。
アーチ橋って別に鉄で作るものじゃないんですよね。
石で作るための構造
石で作っても、上からの力が分散されるから
強いというアーチ構造が形骸化してしまって
同じようなアーチ橋を作ってしまったと。
と:なるほど
隈:その後、テムズ橋とかは
こんなんですよね。
ほんとは、鉄なら
こういうふうなピッチの長い橋が
作れるんですけど
ああいうものを作っていたと。
技術が新しくなるのに
様式は変わらないという矛盾というかね。
(産業革命以降)新しい技術を使って
ものを作るっていうのが
どんどん広まっていく中で、
いろいろな対立が起こっていったんですよね。
それで、これ以降
どんな対立があったのかを
紹介しようとしてます。
(ちなみに、モリス商会の商品は
職人による手作りでの製造だったために
高級品になってしまい
モリスの描いた理想とは違い
多くの生活者の手には届かず
お金持ちしか手に入れられないような
代物でした。)
まず最初は、
ドイツ工作連盟において起こった争い(1907年)で
アンリヴァンデヴェルデっていう人と
ヘルマン・ムテジウスっていう人がいて
この人が、ヘルマン・ムテジウスですね。
この人も…
な:この人も髭…
隈:この人は、髭の禿ですね。
な:髭の禿ってひどい…
あ、ちなみにFireFoxで開いたら
ちゃんと見れるようになりました。
隈:で、こっちの
ルイージみたいな人が
ヴァンデ・ヴェルデですね。
な:たしかにルイージっぽいな。
隈:この髭は、カイゼル髭でいいですかね。
と:そうですね。
な:髭にもそんな名称があるんですね。
隈:まあ、カイゼル髭とか
はやしてるような時代の
話ということでもあるんですがね。
ここで何が起こったのかというと。
ヴァンデ・ヴェルデはどっちかっていうと
アール・ヌーボーの作家みたいな
ノリの人で
と:ノリの人…
隈:で、ヘルマン・ムテジウスっていう人は
「標準化」っていうことを
主張した人なんですね。
ドイツにおいて
工業的な規格をつくろうとしていました。
標準化をすすめれば
もっと効率的に
ものを作れるようになりますよ
って言ってたんですが
この時は、すっごい揉めたらしくて
ムテジウスはドイツ工芸の敵だ
っていうふうにも
言われたりしたほどなんですよね。
(ムテジウスはモリスの考えには賛同していた。
しかし、人々の生活の為には
結果的に高級家具を作っただけのモリスのやり方ではなく
「標準化」「規格化」をすすめていくことが必要だと考えた。
また、ムテジウスに同調する者も少なくなかった。
論争の結果、工作連盟を抜ける事になったのは
ヴァンデ・ヴェルデのほうだった。)
ムテジウスがいうような
標準化というものに対して
ヴァンデ・ヴェルデが
主張したことっていうのは
個人主義というものだったんですね。
個人主義っていう言い方は微妙ですけど
ここで個人主義って言ってるものは
個人の作家の感性でものを作っていくことが
美しいものを作るために必要なことなんだ
って言ったんですね。
それに対してムテジウスは、
いやいやちがうと
多くの人の生活のためには
標準化して、画一的になってしまっても
効率的に生産するのが良いんだっていうふうに
言ったんですね。
ヴァンデヴェルデは個人の感性だって言うし
ムテジウスは標準化だって言うし
っていうことで揉めました。
ちなみに事の顛末としては、
戦争が始まっちゃうんで
標準化というか効率が大事になっちゃう。
結局近代的な戦争っていうのは
効率的に人を
どれだけ殺せるかっていうことなので
こういった状況の中で、
どっちが強くなっていくかというと
標準化のほうだったということです。
これが一例で
次は、バウハウスのはなしなんですが
バウハウスといえば
初代の校長でグロピウスという人がいますよね。
画像は、有名なデッサウ時代のの校舎ですけどね。
…グロピウスという人は髭は生えてないですね。
と:ほんまや。
な:イケメンや。
隈:うん。
な:イケメンな写り方や。
隈:イケメンな写り方ってなにw
でも結構後退してるよね。
な:デリケートなところは
触れてあげないでください。
隈:このグロピウスっていう人は
実はモリス的な考え方を
している人だったんです。
手作りがいいと思ってたし
職人によるものづくりとかが
いいと思ってた人なんですよね。
ちなみに(ちょっと脱線しますが)
この人、ヨハネス・イッテンなんですけど
こういうものを見たことがありますかね。
な:はい。
隈:これは、ヨハネス・イッテンの色相環で
わりと普段みる色相環と
ちょっと違ってて
絵具の混色をもとに
色相環が作られてて
な:なるほど
隈:こういうのとかを、美大受験の時にさんざん
勉強させられて…(落ちちゃったという)
記憶がよみがえってくる。
な:じゃあ、あんまり見たくないってこと?
隈:いや別にそんなことないです。
これの形の時計とか売ってるんです。
な&と:ああ
隈:ちょうど12個に分かれてるんでね。
な:便利。
隈:これ見ると、三原色が
赤青黄になってて
それの二次色が緑紫橙になってて
絵具で混色するための概念図としては
まとまってるというかね。
と:うん
隈:なんかちょっと違うでしょ。位置が。
イラストレーターの
画面の横にちょっと出てくるやつとは。
と:はは。
隈:ヨハネス・イッテンの話はこれくらいにして。
…グロピウスは、
もともとはモリス的な考え方
だったんだけど
途中で、
バウハウスVSデ・ステイル
というような局面があります。
この人はドーズブルフという人なんですけども
この人は、デ・ステイルのリーダーで
デ・ステイルというと
有名なのは、リートフェルトですよね。
リートフェルトってこんな人なんだなあ…って
と:へええ 初めて見た。
隈:写ってる時期が
(ドーズブルフと)違うのかもしれないけどね。
最初のほうに出てきた
モンドリアンとかもそうですよね。
…モンドリアンは、これ。
と:ズバリではないですが。
隈:これは、マリオペイントで描いた
モンドリアンですけどね。
この人、テオ・ファン・ドーズブルフという人は
何を言った人なのかというと
バウハウスのグロピウスの考え方に対して
間違ってるってすごい批判したんです。
(デ・ステイルは共通のパーツの組み合わせで
世界は構成されていると考えたから
規格化や標準化推しの考え方だった)
それによってグロピウスは
機械生産重視の考え方にかわるんですね。
(グロピウスが、積極的に機械生産重視の考えになった
決定的な根拠は実はよくわからないです。
想像としては、ヨハネス・イッテンが個人の感性を
解放する為にゾロアスター教の信者がやるような
呼吸法だとかを取り入れていったのを
やりすぎじゃんって思って、そっから教育を
変革させるために機械生産重視に舵をきらないと
まずいと思ったんじゃないだろうかと。
デ・ステイルによる批判は願ったりっだったのかもしれない。)
というような感じで、
モリスと大量生産っていうのが対立したりとか
アンリ・ヴァンデ・ヴェルデと
ヘルマン・ムテジウスが対立したり
作家重視という考え方と標準化という考え方が
対立したんだけど、
世の中の流れとしては
戦争に向かっていく中で
標準化のほうに傾いていったりとか
バウハウスにしても
初期のグロピウスの考え方は
モリス寄りだったけども、
バウハウスとデ・ステイルは
国も違うけど空気的に
手作りっていうところから
機械生産のほうに
どんどん向かっていかなきゃ
っていうような感じで
1900年前後くらいから
そっちに向かっていたと。
なんか、そういうのは今でも…
例えば、前回言ってたようなことだと
手書きとワープロ
…ワープロっていう言い方もしないか
だとやっぱり手書きのほうがいいよね
みたいな話が
いつまでもあったりとか…
いつまでもあるっていうのは、
それはネガティブな意味ではなくて
なんかそういう感覚と
そうじゃないもの(効率的なもの)が
いつも同時期に存在してるということは
同時にそれらの対立も
いつの時代にもあるんだ
っていうふうに思うんです。
対立が、(工業化した)初期の頃にもあったし
今の時代にもあるんだ
っていうことを考えていったら
今、こういうことをとられると
この作品を作ってた当時
というよりも
今これらのことに対して
どう思うかというと…
そういう対立が
何度も繰り返されてたっていうことは
(スライドを)戻っていきます。
そうすると、デザインは解決策であるとか
デザインはアートとは違うっていうこととか
アフォーダンス的なことが
重視されたりとか
っていうのがデザインだって
そんなに思いすぎることはなくて。
社会に対して~とか、
売れるために~っていうために
マーケティングしたり、外連味をもたせたり
なんとなく小奇麗にまとめてしまったり…
そういうことも
別にしなくていいんじゃないかなって思って。
たくさんのための
デザインっていうものと
正反対のところにある
手作りのものとか、
個人的なものっていうのも
あってもいいんだなって
考えるようになったんです。
で、話の流れにもどすと
こういうふうな感じで
バウハウスとかも
機械生産重視の考えに
転向していきました。ってことで
かたち→デザイナー
つくる→工場
つかう→消費者 という形に
なっていったと
前述のとおり
工場でつくることによって
たくさんのものが
作れるようになったので
より多くの人に伝えるってことと
分かりやすく伝えるってことが
重要になってきた。
より多くの人に届けるとか
分かりやすく伝えるってことは
こういう技術の時代においては
良いことだというふうになってきたんだけど
例えば、
10人に伝わることと2000人に伝わることというのが
あるとしたら
2000人に伝わることのほうが
価値が高いんだろうか。
という問いに対してどう思います。
な:うーん。
価値…
10人の人生をすごい変えるなら
10人のほうがいいのかもしれないし
結果というか内容にもよると思います。
けど、私は10人のほうがいいと思います。
その人数にしか伝わらないってことは
むしろ、その人数にはきちんと
届けられたということだからと。
それは、ちょっと歪んだ考えかもしれないけれど
隈:僕もわりとそう思います。
というか、なんか結論っぽいですけどw
な:やっちまったかんじ?
隈:いや、全然。
な:ならいいですけど。
隈:だって、きれいにためてためて
オチがつきましたっていう
演出をしているわけでもないので。
と:(数じゃなくて)内容によるよね。
隈:そう。内容による。
そして、さらに数を増やして
考えていきます。
2000人に伝わることと
極端な話67億人に伝わることと
どっちがいいのかなって。
って考えたりしてって。
と:うーん。
隈:なんか本当にたくさんの人に
伝えるってことは難しそうだし、
どちらかというといやだなという
感じがすごくする。
な&と:うんうん。
隈:それは、単一の考え方が
全てであるってなっちゃうってことの
失敗例がわりと思い浮かんじゃうんですよね。
な:うん。
隈:嫌悪感があるというか…
わりと嫌だなって思うんです。
デザインとかの教育において
コミュ力にしてもそうですけど
他人に伝える力が求められて、
それが正しいとされているけれど
でも、それは
どっちがいいとは言いきれないんですよね。
と:そう。
隈:…反対するわけでもなくて
どっちがいいとも言いきれないとしか
言えないんですよね。
な:うん
隈:良いデザインが良い世界をつくるとは
言えないんじゃないかって
考えるようになってきたんですよね。
なんかそれは、どっちかっていうと
その時ネガティブな方向に行ってしまい
デザインをやってても
しょうがないよなって思ってしまったんです。
な:卒制で一番やっちゃいけないこと…
隈:っていうのが、デザインの話なんです。
オチはこんなんだったっていう。
と:うーん。
隈:だから、今はけっこう迷ってて
さっきなんしーさんは10人と2000人だったら
少なくてもちゃんと伝わるほうがよい
ということをおっしゃてましたが
な:うん。
隈:僕は
それはすごくポジティブな考え方だと
思っていて
あの…
僕はとらえ方が
良くないのかもしれないけれど
10人に伝わることも
2000人に伝わることも
なんかどっちがいいとも
言いきれないということは、
どっちをやっても
しょうがないんじゃないかなって
思ってしまうんですよw
な:うーん。
と:そもそもなにかを
伝えるのは難しいことだよ
ていうこと?
隈:なんかこれに意味あるんかなって…
な:自分がやってることに対して意味を
考え始めたら何もできないんじゃない?
隈:そうそう。
そうなんですよ。
だから、頭の片隅にどこかあるんですよね。
前口上でも書いたんですけど
悪いやつとかがなんの罰も与えられずに
はびこっているこんな世の中だけど
(まじめにやってる自分が馬鹿らしくなる感じ)
な:うん。
隈:簡単に言うと
そういうことなんですよね。
な:うーん
隈:なんかはっきりと
勧善懲悪な世界観で、
悪いことしたら咎めらるし
善いことをしたら報われるというような
世の中とも言いきれない…
(善悪といえど)
どっちがいいとも言いきれないというか。
たくさんの人に伝わることと
少ない人に強く伝わることと
どっちがいいとも言いきれない。
な:それは決められないでしょうね。
どっちがいいとは言えないんじゃないですかね。
取捨選択していかなければいけないし、
自分の対象としている人が
半径5m以内なのか
もっと多くの人なのか。
選択することと
あきらめが一緒とは言わないですけど
何か見なかったことにしたりして
何も決めないっていうのは
何にもならないっていうのと
同義なので
なんか、ほんとに
身動きが取れないし
最終的に存在意義とか
問いだしてしまう。
隈:そう…でも
結果的に僕が
そんなふうに考えたからと言っても
ずぶずぶいくわけではないというか…
そのへんの話をこっからしていきます。
(part3へつづく)