2012/08/27

vol.3 part2 『美術館→芸術→路上→観察』

KUMAUHEI WORKS CAUTION!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! vol.3テキスト版
part2『美術館→芸術→路上→観察』

ブックアート作品『注意!-京都貼紙地図-』を紹介するUstreamの
放送内容をテキスト化したものです。

vol.3 part2では、
路上観察学会とトマソンについて
(かなりざっくりとですが)解説しました。
重要な部分は、
芸術にとって大事な事は
“作品”っていう価値物を生み出し
鑑賞することよりも
路上の“なんでもないもの”を“観察”して
面白いと思う事の方が大事という部分です。
作品と鑑賞者では作品のほうが価値が高かったのが、
観察の場合はそれが逆転しているということを
説明しています。

出演
KUMAUHEIWORKS(以下:隈) 画面左下

                              



隈:というわけで、
本題に入っていきたいと思うんですけども
今日のパートっていうのは
『この作品には複数の元ネタがありますpart1』
というパートです。


(最初に関係する人物名を羅列しました)
どういうものが元ネタなのかというと
まず最初に紹介するのが
路上観察学会とかトマソンというものです。


これは、一個目に紹介するものでもありますけど
明確にこの作品の直接の元ネタでもあります。
これはどういうものなのかというと…


(間違ってヘルマン・ムテジウスの写真が出てしまう。
しょうがねえなムテジウス…)


やっていたのはこのへんの人たちで
この… 左側が藤森照信さんで真ん中が赤瀬川原平さん
右上にいるのが…
本の紹介の時にもでてきた南伸坊さんっていう人なんですけど
この人たちがやっていたことが
路上観察学会とかトマソンとよばれるものなんですが…
概要を言う前に
まずわかりやすい画像を紹介します。



四谷の純粋階段というものをなんですが
この写真は1972年に撮られたもので
東京の四谷にある階段なんですけど
階段っていうものはふつうフロアからフロアをつなぐものですよね。
だから階段を上った先には別のフロアがあったり
こういう階段だったらドアがあったりするんでしょうが
この階段は上っていったら…
あとは降りるしかないっていうことになっていて
どこにもつながっていない階段なんですね。

これは、階段でしかない純粋な階段という事と
場所が四谷だったということから
四谷怪談というのとかけて
『四谷の純粋階段』というふうに言われているんですが
これが、トマソンと呼ばれているものですよね。
トマソンっていうのがなんでトマソンと呼ばれているのかというと


この人から来ています。
この人なんだと思いますかね。
あの…みたところジャイアンツのユニホームを着ていますから
その当時いた野球選手です。
野球選手でしかも外国人ですよね。
ゲーリー・トマソンという方なんですが
いわゆる助っ人外国人と呼ばれるような人だと思います。
…私、実は野球に全然詳しくないので
助っ人外国人という人たちが
どういうポジションの人たちかよくわかってないんですが
バースみたいな人のことですよね…たぶん。
バースみたいなポジション…ポジションっていう言葉は
野球の場合どこを守っているとかっていう意味合いになるから
話がややこしくなるんでしょうか…
ちょっとわからないですが…
というかもう混乱をきたしていますけど
大丈夫かな話を続けられるかな…

トマソンっていう人は、助っ人外国人で
おそらく高い契約金払って連れてきたんでしょうねたぶん。
でも、(ジャイアンツに入ってから)全然活躍しなかったんですよね。
だけど、契約の関係とかでずっとこの人は
チームにいてはったんですよね。
(それで、ファンからはすごい文句言われてたらしいですね)

そういったことから用がなくなったのにいつまでも
そこにあることという意味で
こんな意味のない階段とかを指して
トマソンというふうに呼ぶようにならはったんですね。

こういうようなものを
赤瀬川さんたちが収集していったりしていったんですが
トマソン的な文脈じゃなく
路上にあるいろいろなものを収集する人たちが集まって
路上観察学会というものを作ってたんですね。
(この路上観察学会というものは
いわゆるちゃんとした学会ではなくて
“任天堂公式ガイドブック”みたいな
ゲームの攻略本に公式もなにもないだろう
っていうものに対して
いかにもちゃんとしてそうな体裁をとるっていう
洒落と似たようなもので
学会っていう体裁をとって
発足時には、みんなで燕尾服なんか着て
集合写真撮ったりなんかしてね。
そういう洒落ですよね。)

そういう集まりがあってその中に林丈二さんという方がいて
その方のやってきたことを紹介しようと思うのですが


(これ、INAXギャラリーから出ている本なのですが
INAXギャラリーというのはTOTOじゃないほうの便器のメーカーが
ギャラリーをもっていていろいろと面白い展示をやっているんですが
本も刊行されていて
この本には林丈二さんの活動の写真も多くてデータもまとまっているので
これを紹介させていただきます。)

この人はですね。
マンホールの蓋をあつめたりとかしてて
こういうものなんですけど
ご当地マンホールみたいなのがあってそれを集めてたと。


あとは、このあたりは考現学的ですが
アイスの棒のあたりとかをいろいろ集めていたりとか




このへんなんかは路上観察的なもので
化粧石って書いてありますが
家の角に石が置いてあって赤とか黄色とか
目立つ色で塗ってあるものなんですけどね。
これは京都でもたまに見かけますけどね。

これなんかは面白くて
各地にある狛犬の後ろ姿
尻尾の形ばかりを集めるとかね。


あとは、植物と自転車っていうものを集めたりとかね。


(これは、私の卒制のゼミの先輩の晋平さんという方が
「まちくさ図鑑」〈街のアスファルトの隙間から生える
雑草を収集し分類したもの〉の中で
雑草がチャリを食ってるというものとして
分類していましたけどね。
林さんももともとこういうことをやられていたと。)


石文っていって、石に文字が書かれているものとか
これはよく見かけるものだと思いますが
ここにおしっこかけたらアカンでっていう鳥居をあつめたりとか


だいたい路上観察学会的なものとかトマソン的なものとかが
どんなことをやっていたのかということを
想像していただけるかと思いますが
こういうのを集めて面白がっていたんですね。


(この南さんの写真はvol.1で紹介した『黄昏』の表紙です。)
ちなみに、最初に紹介した南伸坊さんという人はこういう本を
出していらっしゃいまして…
『ハリガミ考現学』という本を出されていて


(街の荒くれ者たちによる
バイクのエンジン音による騒音がバックで流れる)

今の(音)で思い出したんですけど、
都築響一さんがこういう『夜露死苦現代詩』という
本を出されたりしていますね。(この本は暴走族の本ではないです。)


(他にも、暴走族の改造バイクについて取材したり
バイクのエンジン音で
『暴れん坊将軍』のテーマ曲を
演奏する人を発見したりされていますよね…
それは、今は関係ないとして…)

南さんってイラストライターという肩書を名乗っていらっしゃいますが
こんなハリガミを街で見かけたよっていうのを
イラストと文章で表現されていて、これ面白いんですね。
すごくいっぱいあって…
たぶんこれ今絶版になっていると思うので
少し手に入りづらいかもしれませんが。
ハリガミっていう同じテーマを扱っていらっしゃるので
なんていったらいいのかな…
これと同じようなアプローチは、
(私は)まあやらないだろうなっていうことですね。

(悲鳴のような声が聞こえる)
(後から確認したところこの声は、
おかんが居間でテレビを見ていたところ
この時期は、夏ということで
芸人による怖い話が放送されており
その怖い話のオチにあまりにもびっくりして
声を上げてしまったとのことでした。
しかし、バイクの音と違い
あまりにも状況が見えなかったので
スルーしてそのまま進行しました。)

そういうものがあったりとかね。
ちなみに、
路上観察学会の活動の色々については
ちくま文庫から出ている
『路上観察学入門」という本にわかりやすく
まとめてあります。


図版も結構載っています。

赤瀬川さんという人は、
もともと現代美術作家だったんですね。
今でもといえばそうですが。 
読売アンデパンダン展とかに出してはったり
美学校というところで先生をやったりしていて

まあ、美術をやっていた人が
なぜ街中を観察したり
収集したりするようになったのかというあたりが
この作品…『注意!-京都貼紙地図-』に
わりとかかわってくるところなんですが、
こう…ちなみに
今から赤瀬川さんが
ほぼ日のインタビューでおっしゃっていたことを
簡単に要約して伝えたいと思います。
(内容全体としては)
千円札裁判あたりのことをしゃべってはった時です。


赤瀬川さんは、
最初は作品を作ってはったんですね。
でも、途中でなんか違うなってなっていったんですよ。
なんて言ったらいいのかな。


作品の価値は作品の側にあるんじゃなくて
見る人の側にあるっていう…
こういう話があるんですが、これについてどう思いますか?

(などと、話し相手がいたらしたいなと思ってたんですが
いないので各自で考えていただきたいんですが)


つまり、面白いという仕組みさえ作れば
美術であるとか作品であるという体裁は
必要ないのかなっていうのが
この赤瀬川さんたちが途中から考え始めたことなんですね。
60年代後半とかそれくらいの話だと思うんですが…

美術館に置けばどんなものでも
作品と呼んでいいですよね
という話になったのは
マルセル・デュシャンがそういうことを
言い出したあたりからで、
20世紀の美術っていうのは
そういう方向に流れていったんですが

その後には、
じゃあ美術館じゃなくても
美術というかアートと呼んでもいいですよね
っていうことになって
街へ出ようじゃないですけど…
(じゃないですけどじゃないですね。
まったくそれそのものですけど。)

ハプニング的なものとか
路上でのパフォーマンスっていうふうになっていきました。

そこからさらに発展して
面白い仕組みであれば という話になると
作品っていうものも作らなくていいし
それが、プロによるパフォーマンスである必要もないし
学会っていう体裁っていうか枠組みを作る
というか学会風の枠組みを作ることによって
路上を観察する人が東京の街を見たときに
どれだけ自分で発見できるのかっていう事が大事で
…というかそれが一番大事なんだっていうことなんですね。

だから、東京の街を観察する場合
観察対象である街は確かに重要であると
重要ですが、ほんとに重要なのは
街自体というよりは
街と自分たちとの関係性で
もの(街)がずっと残っていくというよりも
そのものが朽ちていったりする。
それなのにそこで(いびつに)
残ったものに対して想像力を働かせる
ということのほうが大事で

作品が作品然としてそこにある、
パフォーマンスがパフォーマンス然として
そこにある、やってる
ということよりも
そっち(面白いと感じること)のほうが
大事だっていうふうになってきて…

(多少内容の重複になりますが)
この『路上観察学入門』っていう本の中で、
先ほどの藤森照信さんっていう
建築家…建築史家ですよね。が
まとめているところによりますと
まず、三段階あると。

美術館の芸術段階というのと


路上の芸術段階そして


路上の観察段階というのがあると。

美術館の芸術段階っていうのは
アンデパンダン展などっていう
美術館の中で何かを表現する
ということなので
展示される場所は美術館で、
展示されるものは作品である
ということなんですね。
それが、芸術っていうものなんだと。

次にいくところは、
ハコは関係ないんだっていうところで
ハコは関係なくてもやっちゃったらいいっていうか…
ハイレッドセンターっていうものであったりとか
草間彌生さんがやってたような
“ハプニング”っていうものもそうですよね。

だけど、そこに留まらずにそっから
進歩してしまって
もう、芸術作品を鑑賞するということではなくて
なんでもいいんだと
なんでもよいものを観察するんだと。
なんでもよいといい方は語弊があるかもしれないけれど
“作品”ではないということですね。
作品ではないものを観察するんだ。
そっちのほうが伸びしろが大きいっていうのかな
見るほうがなんとでも感じられるので、
つまり作者がいないから。
こういうふうに感じるべきである。
見るべきである。
こういう文脈で作られたという
人為的な作為?
(って白い白馬みたいな言葉ですけど)
みたいなものがないものを見るほうがいい。

そして、ここで重要になってくるのは
“観察”っていうものなんですね。


part3に続きます。