このテキストは、2016年2月10日-21日に京都市の元崇仁小学校(以下、元崇仁小)にて行われた展覧会『Open Diagram』について、発起人(※1)であり出展作家でもある筆者が展覧会を行った際の状況と今後『Open Diagram』の新たな展覧会を企画する際の指針について書き記したものです。
展覧会の会場となった元崇仁小は、京都市立芸術大学(以下、京都芸大)が2023年に予定する大学移転先の用地にある建物です。そのため、取り壊されることが決まっています。展覧会では、校舎内の空き教室や廊下などを使用しました。
京都芸大が移転予定の崇仁地域は、京都市の下京区内の南東に位置します。この地域は、1918年に京都市に編入されるまで紀伊郡柳原町という地名でしたが、京都市への編入に伴って東七条町と改名されました。この時、この地域には柳原尋常小学校という学校がありましたが、町名が柳原ではなくなったため、校名が改められました。この際、「崇仁尋常小学校」と名付けられますが、これは平安時代の中国を真似た条坊制の区画名が由来となっていて、この地域の周辺の坊名が「崇仁坊」だったことから名付けられたとされています。(※2)2010年に「崇仁小学校」閉校するまで、「崇仁」という名称は校名として使用されました。小学校の通学区域が「崇仁学区」と呼ばれ、この元学区の範囲が現在でも「崇仁地域・地区」と呼ばれています。(※3)
私は崇仁地域を含む京都市下京区のすぐ南側、京都市南区の出身です。
下京区との間には、京都駅があり(※4)駅ビルと東西に横たわる複数路線の線路に阻まれて、駅周辺の南北の通りは、通行できる箇所が限られており、トンネルや高架橋が整備されている場所のみ南北に移動ができます。私は、このあたりで生活をする中で京都駅の北側に対してこういった物理的な要因から「なんとなく行きにくい」という感覚を持っていました。
2013年に京都芸大移転が発表されてから、郊外にある京都芸大が自分の地元からも近い市街地に移転するということで興味を持ち、崇仁地域内を歩いたり、地図を見たりするようになりました。地図を見ている時に、京都駅の東側は、下京区のエリアの一部が線路の南側にはみ出していることに気がつきました。
私は、この時まで下京区と南区は線路できっぱりと分かれていると思いこんでいました。しかし、実際は、線路の南側にも下京区の部分があるのです。
遡ると、京都駅の東側に線路が敷かれているという状態は、1879年に官設鉄道が京都駅から大谷駅まで延伸された時から続いています。(※5)
現在の崇仁地域が、京都市に編入される前には、すでにこの物理的なライン(線路)は引かれていたということになります。また、現在の南区の十条通り以北の区域は1955年に南区ができるまで、下京区の一部分でした。(※6)
線路や駅といった物理的なラインも行政区分のような実際には見えないラインも固定的なものではなく、70数年程度のスパンで見ただけでも変化があったことがわかります。
東へ向かうための線路によって南北に境界線が引かれたり、区町村の編入・分区などによって人為的な境界線の位置が変わることで地域の範囲は変容します。
私は、線路の北側と南側という物理的な隔たりによって、線路を境にぴったりと行政区分が分かれているという思いこみをしていましたが、たまたま京都芸大が移転することに興味を持ち、実際に崇仁地域の周辺を歩いたり地図をよく見ることで、その思いこみが間違いであったということに気づきました。
実体が変化する「地域」。今見えている境界線だけが「地域」を規定するものでしょうか。このことに気づくという経験は、私が生まれ育った地域で生活する上で重要なものだと感じるようになり、この場所で展覧会を企画する理由の一つになっていきました。
京都芸大の移転発表後、崇仁地域では移転プレ事業という枠組み等で色々な催しが行われていて、そこに学生が参加することがありました。2014年の夏頃、その当時、京都芸大の大学院生だった私は、元崇仁小の内部を見学させてもらう機会がありました。(※7)
その見学の時点で、閉校小学校施設になったこの校舎の教室は、市教委の倉庫になっていたり、一部が地域催しの倉庫や地域のコミュニティスペースなどとして利用されていました。閉校に伴って使用されなくなったグラウンドや体育館は、スポーツクラブなどが利用していました。また、小学校に隣接する市営の体育館では、市内のスポーツクラブなどが利用していました。(グラウンド、両体育館は現在も市内のスポーツクラブなどに貸し出されています。)
グラウンドや体育館という場所は、「スポーツをする」という制度によって定められた目的を持った人々が利用する場所になっています。「スポーツをする」人々は、施設を利用する時に崇仁地域という固有の場所に滞在しますが、スポーツという制度はこの地域固有のものではありません。また、グラウンドや体育館の利用者は、崇仁地域在住に限らず様々な場所から崇仁地域を訪れ、施設を利用しています。
校舎内の空き教室が市教委等の倉庫として利用されていることは、少し様相が違っていて
元々は、小学校の教室として機能していた場所が閉校によってその機能が必要なくなったことによって単なる空きスペースになってしまった場所に、(小学校/教室とは)無文脈なものが詰め込まれているという状況でした。(※8)
このような状況も、場所自体は固有のものですが、そこに学校という制度に基づく建物が作られ、それが機能しなくなって以降、何にでも使える空間としてさらにそれとは関係ない利用のされ方で使われるということが起こっていました。
こういったケースの「利用者」は、「地域」の範囲を狭く捉えた場合には、「地域の人」と捉えられることはありません。しかし、実際にはそういった単一の目的を持った人が利用する場所(制度によって規定された場所、あるいは逆に何とでも捉えられる場所)が地域には存在していて、その場所も地域の一部であり、そこで起こっていることも地域の中での出来事であると捉えられます。
たしかに、それぞれの地域には固有のもの、固有の経過(歴史)がありますが、行政などによって定められた区画の中で、独立的に固有の事象が発生すると考えるのは間違いで、その地域の周辺との関係、あるいは、地域を包括する社会全体との関係の中で固有の事象のようにに見えるものが発生しています。
一つの地域(例えば崇仁地域)を区画や区画内の人、物、出来事を他から分断して捉えることは、実際的ではありません。区画の線引きが時と場合によって変化することで、地域のかたち自体が変わることもありますし、地域の中でも外部の制度に依る出来事も起こるので、(外部の制度に依るものなので、他の場所でも起こる)何をもってその地域固有の事象であるかを決めることは難しいのではないでしょうか。
こういった状況のなかに「芸術大学」という今までになかった施設、制度が入ってくるということはどういうことでしょうか。
前述のとおり、私が元崇仁小の見学に訪れたのは、2014年の夏頃でした。そこから少しずつ整理、整備がされていき2015年の春には、展覧会『still moving』(※9)が開催されました。校舎内にばらばらに保管/放置されていたものが展覧会の為に整理されて、展示空間ができていました。
『still moving』開催期間中にもイベントが行われ、そこに京都芸大の学生も参加していました。会期中、毎週土曜日に行われていたウィークエンドカフェ(※10)では、私も含めて何度も同じ学生が参加しました。同じ学生が何度も参加する過程で、京都駅付近からたまたまウィークエンドカフェに立ち寄った人を学生がを迎えるというような状態が生まれました。これは、学生が外から崇仁地域に来たお客さんではなく、一時的に迎え入れる側になった状態でした。
大学の施設というハードウェアがなくても、「なんとなくここが今の瞬間だけ京芸になった」ような感覚になり、また移転後の京都芸大はこんな感じの場所なんじゃないかなと想像を巡らせました。
ウィークエンドカフェのだらだらした空間で「大学っぽさ」を感じたことについて考えていました。
大学のような規模の施設が移転し、新しい建物が建つ計画が持ち上がった時、そこにはある特定の目的を持った人、特定の利害がある人、特定の機能を果たすように働く人が集まります。そういった場所で、対話がうまくいくことは、普通は「利害調整がうまくいくこと」ではないかと思われます。
芸術大学である京芸を「決められた制度(専門領域)の中で成立する「作品」の制作技術を教育する場所」だと捉えた場合、単にそれに必要な設備や面積などが適切にあればそれでよく、例えばグラウンドや体育館と同じく地域の文脈とは無関係のものであっても問題ありません。しかし、芸術を「専門領域を越えて、社会の中で個人が生きることそのもの(あるいは、個別具体的な状況が現れることそのもの)」であると捉えた場合、今日の社会的状況の中でこの場所で芸術に携わることがどういうことなのかが重要になります。
逆に、純粋に個人の内発的なものが芸術表現として発露されるということはあるのでしょうか。どんなに個性的に見える表現であっても、人は必ず何かしらの社会状況の中に置かれているので、完全に「独立した感性」というのはありません。
こういった「個人の感性」も含む「個別具体的な事象」、これらが何らかの社会的参照点によって参照可能な状態に置かれたものが芸術作品です。
現在、芸術のため用いられる各種技術は、専門領域の作品(ジャンル作品)を制作する技術として使用されることもありますが、本質的には「参照点」ないし「参照方法」をかたちづくるためにあるものです。
専門性やそれに基づく専門領域内での評価といったものが「制度」になってしまい、京都芸大芸が芸術大学としてその制度のために利用できる空白地(空きスペース)を求めるようでは、形骸化したものを芸術と呼んでいるだけだということを露呈していることになります。
反面、地域と芸術の関係性を考える場合、芸術が「個別具体的な事象を参照可能にするもの」であるがゆえに、各地域の際立った特徴がクローズアップされ、それが作品のモチーフとして取り扱われることがあります。しかし、社会全体の状況の中に各地域が存在している以上、地域には固有のものと一般的なものが両方存在しています。
そのことを考えると各地域にある「ものめずらしいもの」だけを取り出して扱うことは、
地域を異化することにつながるのではないでしょうか。異化された地域は、外部から見られる「対象」になります。これによって「見る-見られる」という非対称な関係が生まれてしまいます。
展覧会『Open Diagram』(2016年)では、地域を「対象」と捉え芸術表現に利用しない為にはどうすればよいのかということを企画の時点で話し合っていました。
アーティストが地域を「外部」から見る「対象」とすると、非対称な関係が生まれます。
『Open Diagram』(2016年)では、「異なるものとの距離をはかること」をテーマとし、地域の持つものめずらしさ(特殊性)を取り沙汰さず、自分たちは何と接続できて、何と接続できないのかを考え、それぞれが個人的な「関わり方」を示すというアプローチをしました。
(各人がどのような「関わり方」をしようとしたのかについては、各作家のインタビューや作品説明をご覧いただきたいです。)
冒頭にも述べましたが、『Open Diagram』はもう一度展覧会を開催することを計画しています。『Open Diagram』(2016年)は、京芸が移転することをきっかけに行われた展覧会ですが、実際の利害関係の調整であるとか、京芸の学生による地域での積極的な活動のアピールのために企画されたものではありません。
地域の範囲ついては、固定のものではなく、地域の要素については、固有のものばかりではないということについてはすでに述べましたが、さらに、京都芸大の移転のように市街地にそれなりの規模の公共性の高い施設ができることの「当事者」は、その区画に住んでいる人や、行政、大学だけではないということも付け加えます。
周辺にいる人もこの出来事を「気にしている」し、地理的に周辺の住民といえない人であっても、「気にしている」人はいます。そういう「気にしている」人も含めて、京都芸大移転の(現時点での)「当事者」なのではないでしょうか。
現在の区画にとらわれずに、「当事者」を設定する場合、『Open Diagram』(2016年)のように(よく言えば素直に、)崇仁地域内で展覧会を行うということでは不十分であると考えています。
「京都芸大移転」や「崇仁地域」について、(前述の「気にしている」人であっても)直接関係なければ、なかなか「自分のこと」として考えることは難しいかもしれません。
しかし、「自分のこと」とは考えれられなくても、「近所のこと」として考えることは可能かもしれません。
領域を超えていても「近所のこと」として考えるということは、ある意味で「半可な姿勢」でいることが大事だと考えます。
領域を超えていても「近所のこと」として考えるということは、ある意味で「半可な姿勢」でいることが大事だと考えます。
『Open Diagram』(2016年)の直後、次の展開としてまた展覧会を行うか否か、何度か話し合いました。しかし、京芸移転や崇仁地域の問題に対してアーティストがアプローチすることは、地域固有の事象を取り上げて紹介するような作品を作ることでも、区画の住人と交流することでも無いため、同じ場所でまた展覧会をすることに対して積極的になれませんでした。
展覧会という形式で作品を発表するということは、特定の空間に作品をインストールすることで、鑑賞者に空間的な(スペクタクルを伴う)体験をさせるという性質が強く出ますが、それをうまく成立させる技術によって展覧会を作ることと作品の内容自体にいささかの乖離があることに違和感を感じていたり、「特定の場所」の中に(どこかから持ってくることができる)作品をインストールすること自体に違和感を感じていたことも、もう一度展覧会を行うか否かを決める上で引っかかりになっていました。
しかし、この1年で京都芸大移転を取り巻く環境が徐々に変わってきたことを目の当たりにする中で展覧会が行われることによって、場所の意味が置き換わり、一時的に展覧会場に人が訪れる(人が移動する)ことは、色々なものごとを「領域を超えて、「近所のこと」として考える」ために良い作用をもたらすのではないかとも考えるようになってきました。
よって、現状は、従来の展覧会の形式、あるいは『Open Diagram』(2016年)の形式通りに再生産するのではないかたちで、展覧会(のようなもの)を実行することに可能性を感じています。
新しく展覧会をやるにあたって、やはり「なにか打つ手を考えるようにして思考」しているように見えるかもしれませんが、そもそも芸術は、なにかしらの問題に対して適切に処方できる解決手段ではなく、毒なのか薬なのかもよくわからないものです。
『Open Diagram』の2回目の展覧会が誰によって、どこで、どのように行われるか、全てはこれから決まりますが、気にとめたり、関わってくれる人がいると嬉しいです。
(おわり)
2017年5月
熊野陽平(『Open Diagram 』メンバー)
注釈
※1 『Open Diagram』の原形となる企画は、メンバーの熊野と本田がそれぞれ提案した元崇仁小学校を使用した展覧会が合併して1つの企画となったものであり、発起人は熊野と本田ということになる。また『Open Diagram』というタイトルは、本田によるものであり、アーティスト同士の関係図をひらく(共有する)という本田の提案の名残である。
※2 平安時代の坊名に由来する京都市内の学校名・学区名は、他にも銅駝、教業、淳風、安寧、崇仁、陶化、光徳などがある。
※3 小学校閉校に伴って「崇仁学区」から「崇仁地域・地区」となったわけではなく、両方の呼び方が並行して使われてきた。
※4 京都駅や周囲の線路は下京区内に位置する。
※5 官設鉄道大谷駅は、1921年(大正10年)に、東海道本線のルート変更により廃止された。
※6 1955年、下京区内の旧葛野郡大内村・七条村、旧紀伊郡東九条村・上鳥羽村・吉祥院村にあたる範囲が分区して南区が誕生。
※7 熊野は2014年-16年に京都市立芸術大学大学院に在学。
※8 2017年5月の時点では、元崇仁小は京都芸大の管轄になり、諸団体の物品は撤去されている。
※8 2017年5月の時点では、元崇仁小は京都芸大の管轄になり、諸団体の物品は撤去されている。
※9 京芸移転を契機に企画された展覧会。2015年3-5月に元崇仁小および、周辺地域にて、国内外のアーティストが参加し開催された。
※10 『still moving』内の企画として、開催期間中に崇仁地域の屋外で行われたオープンカフェ、誰でも参加でき、食べ物の持ち込みも可。5張のティピーテントが並び、焚き火を取り囲みながら様々な交流が行われた。
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