KUMAUHEI WORKS CAUTION!!!!!!!!!!!!!!!!!!!! vol.3テキスト版
part4 『観察は“遠く”を自分の側に引き寄せること』
ブックアート作品『注意!-京都貼紙地図-』を紹介するUstreamの
放送内容をテキスト化したものです。
vol.3 part4では、
観察をすることで普段見えないものを発見するという行為が
私の以前の作品(『涙の水平線』など)でやろうとした
“遠く”を自分の側に引き寄せるという行為と
非常に近いという話をし、
そこから、単に街を観察する以外の方法でも
それと同じような想像力の飛躍を生み出すことは可能ではないか
というこの作品の重要なコンセプトについて話しました。
観察をすることで普段見えないものを発見するという行為が
私の以前の作品(『涙の水平線』など)でやろうとした
“遠く”を自分の側に引き寄せるという行為と
非常に近いという話をし、
そこから、単に街を観察する以外の方法でも
それと同じような想像力の飛躍を生み出すことは可能ではないか
というこの作品の重要なコンセプトについて話しました。
出演
KUMAUHEIWORKS(以下:隈) 画面左下
それで、いきなり
現代の私の生活のことに話は戻りますけど
2010年の当時
僕には目の前の京都の街は
代わり映えしないように見えていたんですよ。
それが、そういうふうに今和次郎とかがやっていたこと
あるいは、赤瀬川さんたちがやっていたこと
作品を鑑賞するんじゃなくて
路上を観察することで別のものを発見していった
というか
作品よりも意味があるものを
見いだしていったという事が
…つまり観察が、絶望に対して対峙するための
手段になるんじゃないかって
僕は、その時考えたんです。
(対峙するっていうのは、やっつける方の退治じゃなくて
向き合うほうですけど。)
(終了時間について気にし始める)
続きは
・・・11時になっちゃったんで
どうしようかなと思ってるんですけどね。
予定としてはまだあったんですけど
これ、1時間押しなんで
あと30分・・・
ほんとは後30分くらい分量があるんですけど
・・・続きやります。
いきなりですが、
マイブームとかゆるキャラとか
とんまつりとかいやげもの
っていう話が出てくるんですが
これは、みうらじゅんさんですよね。
今和次郎さんはこんな人で…
柳田国男はこういう人っていう人の顔写真をいつも
みせているのですが、
さっきは忘れてしまっていたので
今見せます。
今、みうらさんのはなしを
しようとしているわけですけど
…そろそろ疲れてきたというのもありますし
一人だと混乱するっていうところもありますし
ええ・・みうらさんの話は
次回に回しましょうかね・・はい。
しかし、この後のまとめが
重要なので
みうらさんの話を飛ばして
さっきの今和次郎とか
赤瀬川さんたちがやっていた事のオチ(まとめ)を話します。
自分の作品(KUMAUHEI WORKS)の中に
結構、“遠く”とか“ここではないどこか”っていうのが
テーマになっているものがあるんですけど。
それは、ですね。
『雲の上の時計』っていう作品であったりとか。
(…速水さんの顔がでちゃった。)
『涙の水平線』っていう作品とかていうものがあるんですが…
これは、説明すると
(『涙の水平線』は去年のUSTの中でも紹介していましたが)
これは壁につけるブラケットライトというタイプの照明器具
なんですけども
これは、涙っていうものをテーマにしてて
この作品に於いて
涙って何なのか、
水平線ってなんなのかといいますと、
島崎藤村が作詞した歌に『椰子の実』
っていうのがありますけど
名も知らぬ遠き島より
流れよる椰子の実一つ
から始まる歌で
椰子の実が海岸に流れ着いて
それを柳田国男が手に取った
それで、その実を見て
この実は遠く南方のほうから
波に乗って
もともとはふるさとの椰子の木についていたのが
ぽとんと落ちて
流れ着いてここまで着たのかということに対して
すごい感動して
涙を流す
というものなんですけども
そういう
遠くのものに対して
思いを馳せる
過去の事に対して思いを馳せる
なくなったものに対して
思いを馳せるっていうような気持ちは
すごく想像力が飛躍することで
遠くの方まで
考えてしまう。
柳田国男がその時感じた事は
それは涙になって溢れ出るんですけど
(自分探しっていう文脈を
この前に紹介する予定だったのですが
時間の関係ですっ飛ばしましたが・・)
自分探しって結局
今自分がいる場所で努力をすること
じゃなくて
場所を変えたら簡単に自分が変わるんじゃないかっていう
淡い期待があって
自分を変える前に
別のところに行って環境を変える
ということをするっていうことなんですけど
だけれども
そううまくはいかないっていうか
余所に本当の自分なんて別にないので
こう…
どこに行こうが
その場で自分がやるべき事をちゃんとやって
いわゆる成長とかってのを
しないといけないのかもしれない。
それでも、
場所を変えたら何とかなるかもしれない
思うっていう気持ちなんですよね。
それ(自分探し)を僕はやらないでいて、
なぜやらないのかというと
やっぱり、子供時代にいたコミュニティとか
(地域であったり学校のクラスであったり)から
いつもどのコミュニティの中でも
割合つまはじきにされてきた感があるんですよね私は…
そうするとなんかこう
(環境が)変わっても特に変わらないっていうか…
だから、周りが変わっても別に良くなるとか
そういうことじゃないだろうということは
はっきりと強く思っていると。
だから、『涙の水平線』で何をやろうとしたのかというと
遠くっていうものを
連想されるものを眼前に現出させることですよね。
流れ着いた椰子の実を見て膨らませる
イマジネーションであるとか
涙を流しているときの視界というようなもの
そのものを現出させる。
自分がいる場所を変えるんじゃなくて
“遠く”を自分の側に
引き寄せるっていうことが
大事だと思ったんですよね。
遠くを自分の側に引き寄せるというのは
さっきまでの話にあったような
観察と全く同じだと思っていて
観察する事によって
普段見えていないものを
目の前に発見してしまったら
そこはもう普段の場所ではなくなっているんですよね。
それは、遠くを引き寄せたっていうことになるんです。
つまり、
観察によって何か
トマソン的な見立て
あるいはみうらさん的な見立てができるっていうのは
『涙の水平線』でやったような
“遠く”を引き寄せるっていうのと一緒だと
思っているんですよね。
だから、今和次郎さんがやってたこととか
赤瀬川さんたちがやっていたこと
観察と見立てっていうのは
非常に大事で、
絶望というものと対峙する為に
大事なものだと思っていましたし
今も思っています。
だけど、実際にやるのは
いわゆる観察
・・・朝顔の観察みたいなこと
ではないんですね。
さっきのハリガミ考現学っていう本で
南さんがいろんなハリガミを見て
それに対してコラムを書いていたようなアプローチは
確かにあるんだけれども
そうじゃないアプローチをしたいって思っていて
観察をして見立てをするということの比喩になる行動を
何かしようと思ったんですよね。
別の事に転化させた。
観察して見立てるっていう以外の方法で
それと同様の効果を持たせよう
というのが
この『注意!-京都貼紙地図-』という作品の
コンセプト的なキモなんですね。
それは、なんていうか
観察でははく
観察の手段の一つである
“歩く”っていうこと自体に
意味を持たせたということなんですが
その辺りの詳しい説明は次回以降に
していきたいと思います。
…以上です。
今日は前半取り乱しましたが
最後まで聞いていただいた方はありがとうございました。
次回配信vol.4は 9/1(土)21:00~ です。
よろしくお願いします!